宮崎滔天と宮崎兄弟物語
中国革命に、人生を捧げた男たち ~宮崎兄弟と孫文の絆
熊本県の片田舎であった荒尾村に生まれながら、アジア解放という大志を抱いて人生を駆け抜けた宮崎滔天。
彼は、中国革命を成し遂げた孫文を長きにわたり支え続けました。滔天に影響を与えた彼の兄たちとともに、その生涯と孫文との絆を紹介します。
紋服姿で日本国民の支持を伝えた滔天
1911年12月、香港にヨーロッパからの船・デンバー号が到着しました。その船で祖国に帰ろうとしていた人物、それが、辛亥革命の指導者の一人であり、後に「中国革命の父」として敬愛を集めることとなる孫文です。
その2ヵ月前に勃発した、辛亥革命の幕開けとなる『武昌蜂起』以降相次ぐ革命軍の蜂起に、君主制打倒の実現を実感した人々は喜びに湧きながら孫文を迎えました。
デンバー号上で孫文を出迎えた中に、一人の日本人がいました。熊本県玉名郡荒尾村(現・荒尾市)出身の宮崎滔天。辛亥革命が起こるずっと前から、孫文とともに闘い続けてきた日本人の革命家です。
船上で彼の姿がひときわ目立ったのは、その背の高さばかりではありません。洋装の男性たちの中で、彼は堂々と日本の紋服に身を包んでいたのです。中国の革命に対し日本政府が干渉してくるのではないかと心配していた孫文は真っ先に、日本の動向を滔天に尋ねます。
その時滔天は、自分が日本の紋服を着て、ほかの同志とともに、列国が注視する中公然と孫文の帰国を歓迎していることが、多くの日本国民が中国国民に同情し革命を支持していること、そんな民意を刺激しないため日本政府は中国革命に干渉しないことを表しているのだと答えました。
この時、孫文は日本を信頼できる国と確信し、滔天の行動に勇気づけられました。このようにして、革命の前も後も、長きにわたって孫文を親友として、支え続けたのが、宮崎滔天をはじめとする日本の同志たちだったのです。
孫文の求心力を信じて待つ
1911年12月の孫文の帰国は、辛亥革命の幕開けである1911年10月の「武昌蜂起」から約2ヵ月もたっていました。
蜂起の知らせを、遊説中だったアメリカ合衆国で知った孫文は欧米による革命干渉阻止に動き、ヨーロッパで外交に腐心していたのです。
孫文が帰国しなかった間、各省で独立宣言が繰り返されながら、革命派は一進一退を繰り返します。 そんな中、なかなか帰国しない孫文を軽視する動きや、革命派の小党同士の不和も出始めました。 ところが、孫文さえ帰国すれば彼のもとに革命は一躍すると、孫文を信じて揺らがなかったのも滔天です。
彼の思い通り、孫文の帰国は、民心に対する求心力を失いかけていた革命派に「団結心」を再起させます。
香港で出迎え、上海行きにも同行した滔天ら日本人同志たちに心を強くした孫文。
彼は、同年12月29日に中華民国臨時大総統に選出され、翌年1月1日、滔天ら日本人同志も参列した大総統就任式と同時に、アジア初の共和国・中華民国が誕生することとなりました。
義侠心あふれる両親のもとで育つ
宮崎滔天(本名:宮崎寅蔵)は、1871年1月23日、熊本県玉名郡荒尾村(現・荒尾市)に、八男三女の末っ子として生まれます。
父親の長蔵は荒尾村に九代続く郷士で、武芸者でもありました。滔天ら息子たちに対し、「豪傑になれ、大将になれ」が口癖で、子どもたちが金銭に触るだけで、「金銭に触るのは、卑しい者のすることだ」と烈火のごとく怒ったそうです。それでいて同情心にも熱く、人として生まれたものに差別はなく、武士、百姓、地主、小作人でも手を取り合い、慶事と弔事があれば弔事により手厚くするべきである、という意味の家訓も残しました。
母親も「畳の上で死ぬのは男子にとって何よりの恥辱」と話す教育熱心な女性で、滔天の義侠心は、この両親によって育まれました。
3人の兄も、滔天に大きな影響を与えた
両親とともに、滔天の人生に大きな影響を与えたのが、滔天の3人の兄である八郎、民蔵、彌蔵です。
八郎は自由民権運動家で、熊本民権党の中心人物でした。日本最大の内戦で、近代日本の幕開けとなった西南戦争において、熊本協同隊を結成して薩摩軍に参加し官軍と戦い、志半ばで命を落としました。八郎戦死の知らせを聞いた荒尾村の宮崎家では、父・長蔵が涙に濡れながら、「以後、宮崎家の人間は官の飯を絶対に食ってはならん」と怒号したと伝えられています。
八郎戦死の2年後に長蔵が亡くなった時、宮崎家の当主となったのが民蔵です。彼は、土地の所有が基本的人権の一つという『土地復権論』を生涯唱えた人物。土地復権運動を起こす前に渡ったアメリカ合衆国で、滔天よりも先に孫文という中国の革命家の名を知ったのも民蔵でした。
彌蔵は、西南戦争で死んだ八郎の思いを受け継いだ思想家であり革命家でした。欧米列強のなすがまま植民地化の道を進んでいた清王朝支配の中国に革命を起こすことこそ理想の国の建国につながるという彼の考えは、滔天に大きな影響を与えます。
中国人になりきって革命運動を起こそうと考えた彌蔵は、横浜中華街で中国名を名乗り辮髪姿で暮らしますが病に侵され、29年の短い生涯を閉じました。そんな兄たちの影響を受け、革命家の道を進んでいったのが滔天だったのです。
それぞれの形で孫文とつながった宮崎兄弟
滔天が初めて上海へ渡ったのは、民蔵の資金援助を受けた1892年のこと。病弱だった彌蔵に代わっての渡航で、約2ヵ月を過ごしますが、騙されて資金のほとんどをなくし帰国。
その後、シャム(現・タイ)へ渡って南側から中国へ入ろうと計画し、シャム植民事業に着手しますが、これもうまくはいきません。そんな中、滔天の思想や行動の大きな柱ともいえる存在だった兄・彌蔵を、病でなくしてしまったのです。
失意の底に沈む滔天でしたが、彌蔵が存命だった頃、彼が会おうとしていた陳少白と会い、そこで、革命家・孫文の名を知ることとなります。陳との会合を取り持ったのは、滔天の亡き兄・八郎の友人だった人物。そしてアメリカへ渡っていた民蔵も孫文の名を知り、心に留めます。
いつの間にか滔天の兄たちは、それぞれの形で孫文との関わりを築いており、それら兄たちの孫文との関わりが、孫文と滔天の強い絆へとつながっていったと言えるかもしれません。
孫文、荒尾へ来る
なんとか孫文に会わなければならないと、再度中国へ渡った滔天でしたが、そこで彼は、孫文が日本へ亡命していることを知り、急きょ日本へと帰国。横浜で、ようやく孫文と初対面を果たしたのは1897年9月のことでした。
「人民は自ら己を治めることが政治の正しい在り方であり、共和主義こそがその表れである」と語る孫文の思想に、亡き兄・彌蔵の革命への思いと同じものを感じ取った滔天は彼に陶酔し、これ以後、長きにわたって孫文の活動を支え続けていくこととなったのです。
初対面から約2ヵ月後、滔天は孫文を荒尾村の実家へ誘います。この時孫文は、約2週間を熊本の片田舎の小さな村でゆったりと過ごしました。
アメリカに滞在中の宮崎家の主、民蔵の蔵書には、彼の持論である『土地復権論』に関わる土地問題を取り扱った洋書が多くありました。この片田舎の村の家にそれほどの本があることに、孫文は驚嘆を隠さず、宮崎家滞在中は読書に没頭しただけでなく、その多くを持ち帰ったほどだそうです。
先代の頃の財産もほとんどなくし、家計が逼迫していた宮崎家でしたが、宮崎家の女性たちはそれをおくびにも出さずに孫文を歓待したと伝えられています。
浪曲師となるも、革命活動を支え続けた
1900年10月、孫文は、滔天らと「恵州蜂起」を起こしますが失敗に終わります。滔天は、蜂起失敗の原因の一つとなった、日本人同志の背任事件で論争し負傷。その後浪曲師となりますが、その時出版した自伝『三十三年の夢』は中国語にも訳され、革命家・孫文と滔天の名を日本と中国に知らしめることとなりました。
貧乏のどん底にあった家族を養うために浪曲師として巡業しながらも滔天は、孫文と、日本に亡命中だった革命家・黄興の手をつながせ中国同盟会の創立に参画。その機関誌である『民報』の発行所を引き受けたり、『革命評論』を創刊するなどの活動を続けました。
そしてついに1911年10月「武昌蜂起」が起こり、翌1月、孫文が大総統に就任し中華民国が誕生。ついに辛亥革命は成し遂げられたのでした。
宮崎兄弟は、今も中国と日本の絆をつなぐ
1913年2月、孫文は亡命時に世話になった人々へのお礼と鉄道視察を兼ねて来日。滔天は長崎に彼を出迎え、視察に同行しました。その際、孫文は多忙なスケジュールにも関わらず、荒尾村の滔天の生家を再訪しています。
1926年、中華民国は、見返りを求めず中国革命運動に明け暮れた事による多額の負債のために宮崎家の土地が人手に渡った事を知り、これまでの恩に報いるため土地の買い戻し資金を提供しました。残念ながらこの時は買い戻しにいたらず、宮崎家の子孫はそのお金で孫文を記念する洋館を建設しました。
生家はその後荒尾市が買い取り、現在大切に保存され、敷地内の資料館とともに一般公開されています。滔天は1922年12月に病没し、その2年と少し後、孫文も逝去しました。
民蔵は、先に逝った弟・滔天にかわり中国を訪れ、病床の孫文を見舞っています。日本がようやく近代化の道を進もうという時に、すでにアジア解放と理想国の建国を見据えていた宮崎兄弟が、孫文にとってなくてはならない存在だったことは、孫文が述べたとされる「革命におこたらざるものは宮崎兄弟なり」という言葉からも分かります。
熊本県の荒尾村で生まれた宮崎兄弟は、今もなお中国と日本のかけ橋となっています。
歌と恋に生きた柳原白蓮
1885(明治18)年〜1967(昭和42)年
柳原白蓮(本名:燁子)
柳原白蓮は本名を柳原燁子(あきこ)といい、柳原前光伯爵の娘で、大正天皇のいとこにあたる女性です。白蓮は、最初の結婚が破たんした後、27歳で、『筑紫の炭坑王』と言われていた伊藤伝右衛門と再婚。30歳を過ぎたころに歌集を出版し、号を白蓮としました。中央歌壇にも認められ、『筑紫の女王』と呼ばれただけでなく、その美しさから大正三美人の一人にも数えられています。
しかし、伝右衛門との結婚は幸福とは言えないものでした。そんな中白蓮が出会ったのが、宮崎滔天の長男で、新聞記者であり社会活動家でもあった宮崎龍介です。白蓮は龍介のもとへ走り、伝右衛門への公開絶縁状を新聞紙上に発表、世の中を騒然とさせました。
白蓮は、その後龍介と結婚。子どもにも恵まれ、晩年は大変穏やかな暮らしを送り、81歳の生涯を閉じました。